川口結実です 私について
初めましての皆様も、既に施術会にいらしたことのある皆様も、こちらのページにようこそお越しくださいました。
KYODO 東京 セラピストの川口結実です。2008年にリフレクソロジーの資格を取り、リフレクソロジストという生業を始めてから16年になります。
長内香織さんとこうしてタッグを組んで1年が経ちました。今、当時の自分のさまざまな状況を振り返ると、今の私と当時の私は全くの別人です。なぜかというと、お客さまの施術を通じて、香織さんと話をし、共に施術をし、勉強をしていくうちに、私もかなりバージョンアップしているからです。
香織さんは、私にとっては相棒であり、姉であり、母のような存在で、時には励まし、時には厳しい言葉を向けてくれます。施術にいらしたお客さまは、きっと香織さんと会うだけでかなりエネルギーチャージができているはずです。
とにかく、私たちの施術にいらっしゃると、皆さん元気になってお帰りになります!
さて、私がこの仕事を始めたきっかけや、今こうして香織さんとタッグを組んで施術をしているそもそもの理由は、実は私の祖母に遡ります。祖母の話抜きには語れないので、今回はその話を少しご紹介します。
私の祖母は、大正6年生まれ。韓国出身の詩人で、留学先の日本で獄死した尹東柱(ユン・ドンジュ)と同じ年に生を受けました。
彼と同じく韓国がルーツの祖母には、生まれた時に産声を上げなかったので、死産だったのかと土に埋めに行ったところ、土をかけ始めた時に急に泣き出した、という本当なんだか良く分からない曰くつきの誕生秘話があります。
私の父は会社を経営していて、母も一緒に仕事をしていたので、私の世話は祖母に任されていました。私はおばあちゃん子として、すくすくと成長していきました。
祖母は医療が未発達な時代の人だからこそ、本当に色々な民間療法を実践していました。春になればヨモギや蕗を取りに山へ出かけ、スープで季節の変動で乱れがちな体調を整え、家族が不調時のケアは祖母が担っていました。
その中でも強烈な思い出の一つとして、瀉血(しゃけつ)があります。
これは、体調不良の時、体の中にたくさんあるツボの中から、その時に合わせた場所に針を刺し、血を出すという手当てです。
まるで乳しぼりのように出血箇所の周りを指でしごき、一滴出せばぬぐい、もう一滴だしてぬぐい、と60滴ほど出血させるのです。
これは、私にとって大きなトラウマと同時に、体調が劇的に改善し、効果があった、そんな強烈な体験として残っています。
幼少期は、手当てや薬草などで何でも治してしまう祖母がカッコよくて、何かあると祖母を頼りにしていました。
しかし、私は成長する段階で、だんだんと韓国のしきたりと言葉の中で大人になっていった祖母が、日本の社会にはフィットしていないことに気が付きました。
祖母は、日本語は流暢なものの、細かいニュアンスが通じず、他意はないのに話を聞いて怒り出すという場面もありました。
外見では文化の違いは分からないので、人間関係でのトラブルもよくありました。
儒教の社会で育った祖母にとって、私たち孫にも不満があったようです。こうしなさい、ああしなさいという祖母について、私や姉たちはいつも不満をもらしていました。
結局、父が50歳でこの世を去ったあと、私は祖母と別々に暮らすことになりました。
祖母を残して、家を出たのです。
短気で、言うことがコロコロ変わり、何かあると「私が死ねば全部解決するんだろう」とすごむ祖母から逃げられました。久しぶりの安寧した日々に安堵したことを、今でも覚えています。
今振り返れば、祖母も辛かったのでしょう。大人になった今、日本の社会で生きている私にとって、祖母の気持ちが痛いほど想像できますが、祖母は、もともとの生い立ちや身近な社会環境によって、悲しみを抱えて生きていたではと思うと、祖母の思いが胸に突き刺さります。
あんなに憎んでいた祖母なのに、今私は、祖母と同じようなことをして、お客様からお金を頂いています。
本当なら、生きているうちにその姿を見せて、感謝できればどれほどよかったことでしょう。あんなに世話になったのに、憎むなんて本当に若い時の私は愚かとしかいいようがないです。
つまり、今の私は祖母そのもので、自分を肯定した時に初めて祖母を肯定できたのです。
これからも、私を支えて励まして、時には厳しい言葉をくれた沢山の人達に感謝しながら、施術会にお越しの皆さんの「メンタルとからだの問題解決」に向かって誠心誠意取り組みます!
よろしくお願いいたします。